月のピアノ ~ ある空想 ~

月のピアノ ~ ある空想 ~

月に転勤!

私たち一家が月面B3地区に移住したのは2135年5月14日のことでした。 夫が月支社に移動するように要請されたためです。 私も勤務先に問い合わせたところ, ちょうどB3地区の事業所に欠員があることがわかりました。 そして2人の子どもたちに話をしたら大喜び。 幼いうちに地球を離れる経験をするのもよいのではという私の意見に夫も賛成してくれて, 一家での移住が決まりました。

月の一日は一か月

太陽は月の周りを(地球時間で)約一か月かけてめぐります。 これが月の一日です。 月では, 「昼」も「夜」も漆黒の空におびただしい数の星が光り, 青い宝石のような地球がいつも同じあたりで満ち欠けしています。

月での生活

B3地区には地球の様々の国から人が集まっていて, 定期的に住民のための親睦会が開かれていました。 こちらの生活に慣れないうちは, 必要な学用品,買い物の注意,よい散歩コースなどいろいろ教えてもらいました。 言葉は同時通訳プログラムが使えて不自由はありません。 親睦会で出会った方と地球の住まいが近いことがわかって驚いたり, 地球で戦争状態にある国の人同士が何事もなく(ないかのように) 談笑しているということもありました。 ここでは住民全体が一つの運命共同体を作っているという感じです。 子どもたちは(地球時間で)週7日のうち3日はオンライン授業, 2日は登校します。 また週に1日, 日本の子どもたちは補習校に行くのですが, 子どもたちはみな, この補習校を何より楽しみにしていて, きっと生涯で最も楽しい学校になるだろうと思います。

ある願い

なんとか月面生活に慣れて来たころ, 私はある願いをもつようになりました。 それはピアノを弾きたいということです。 音楽を聞くことについて不自由はなく, 地月間ネットワークを使えばたいていの音源を入手できます。 でも私は音楽を聴くだけでなく, 自分で楽器を弾きたいと思うようになったのです。 そこで,親睦会でそのようなお話をしてみました。 すると意外なことに(?), 地球からバイオリンやチェロなどを持ってきている人がいて, 合奏することもあるというのです。 ところが月にピアノは1台もありませんでした。

ジェネリックピアノ

私は早速地球の両親に頼んで, ジェネリックピアノを送ってもらうことにしました。 (これは以前「電子ピアノ」と言っていたもので, いろいろ改良されてとても弾きやすくなり, 最近では「ジェネリックピアノ」と呼ばれています。) 2週間ほどで楽器が届くと, 私は自宅で毎日弾くようになりました。 もちろんそればかりでなく, バイオリンやチェロと合奏する機会もあります。 合奏をすると互いの感情がそのまま伝わります。 この感じは, 同時通訳プログラムを介する会話で得られないことです。 音楽は本当に万国共通のことばなのですね。

私のわがまま

ところがこのように自宅で練習したり合奏の集いを重ねているうちに, 私はまたちょっと不満を感じるようになりました。 それは贅沢と言われればその通りなのですが, ジェネリックピアノではなく「ピアノ」を弾きたいという想いです。 夫は賛成してくれたものの, 両親はかなり渋っていましたが, 私はわがままを通して, 地球の私のピアノを月に送ってもらうことにしました。

月のピアノ

適当な便を探すのに時間がかかりましたが, 待ちに待ったその日, なつかしい私のピアノが月に到着しました。 きずもなく無事に届いて安心しましたが, 音はだいぶ狂っているようでした。 調律のための道具,何というのでしょうか,ハンドルのようなものを同梱してもらっていたので, 夫が一日かけて調律してくれました。 ところが夫は「なんか変だ」というのです。 弾いてみるとたしかに変です。 鍵盤が妙に軽くて, 指を離してもすぐに鍵盤が戻らず音が切れないのです。 ペダルも正常ではありません。 どうしたのでしょう。

どうして?

やはりどこか壊れているのではないかと思ったのですが, 夫の考えは違っていて, 「壊れたのではなく,月の引力が小さいからだろう。」 というのです。 地球の楽器店に問い合わせてみたら, 夫と同じ答えでした。 ピアノは地球の引力を受けて複雑なしくみが動くように作られているので, 月ではそのしくみがうまく働かないのです。 そして月で使えるピアノを作るには根本的に設計しなおす必要があり, また計算上は可能でも, 実際に楽器として使えるかどうかは, 月に持って行って調整するしかないというのです。 バイオリンやチェロのような弦楽器も, フルートやトランペットのような管楽器も, そのまま月で使えるのに(少し勝手が違うそうですが), ピアノだけ何ということでしょう。

音楽とともに

ジェネリックピアノはこれからさらに改良されるでしょうし, 「地球のピアノ」を月で弾くことに私たちは段々慣れてゆくのかも知れません。 また,いつの日か「月のピアノ」が作られないとも限りません。 でもいま私はジェネリックピアノを使っています。 それだけでも音楽は大きな喜びをもたらしてくれます。 実はまだ夫に相談してないのですが, 私は余裕ができたら, コミュニティーセンターに楽器を入れてもらって, 近くの子どもたちにピアノを教えたいと思っています。 どこで生きるとしても, 人は音楽を必要とするのですから。

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)