よい楽器とは?

よい楽器とは?

楽器の練習をするとき, まず美しい音に気づくこと, 音の美しさの感覚を養うことがとても大切です。 よい楽器を使うことが求められるゆえんです。

私の教室では, スタインウェイとベヒシュタインのグランドを使っています。 どちらのピアノも弾きやすくとてもよい音色を持っていますが, ベヒシュタインは人に媚びないというのか, 弾き方の巧拙がそのまま音に出るので, 日頃の練習に適しています。 これに対し, スタインウェイは安定感があり, 独特の響きがさらによい音楽を目指すように促してくれるところがあります。 つねに温度と湿度を管理し, 信頼のおける優れた調律師に調整してもらっています。

評伝によれば, ショパンは自分の生徒に「一流の楽器で練習するよう心がけなさい」と教えていたとのこと。 また生徒は, ショパンの家で, いつも素晴らしいコンサート・グランドを弾いていたそうです。 それはタッチが軽いプレイエルのピアノで, 「少し柔らかくヴェールがかかったような澄み渡った音色をもっていた」 とリストが語っています。

ショパンはプレイエルのほかに, エラールのピアノをもっていましたが, こんなことを言っています。

体の具合が悪いときは, エラールのピアノを弾きます。 これだと簡単にできあいの音を出せますからね。 でも元気があって興が乗ってきて, 自分だけの音を出してみたいなと思うときは, プレイエルのピアノが必要なのです。

ショパンの弟子の一人エミリエ・グレッチは, 自分のエラールでは完璧と思われた音色も, ショパンのプレイエルを弾いてみると, 粗雑で不快な響きに感じられたそうです。 エラールは音の美しい楽器だったようですが, ショパンは, エラールを長い間使っていると, 指が鍵盤に触れる際の タッチの感覚が麻痺するので危険だと考えていました。 簡単にきれいな音が出る楽器がよい楽器であるとは言えないということでしょう。

「タッチ」という言葉が出てきましたが, ショパンの奏法の特徴を詳細に伝えているヤン・クレチヌスキによれば, ショパンの教育法の基礎はタッチを洗練させることであり, 「最初のころのレッスンはまさしく苦しみの連続だった」そうです。 そして ショパンの「抜きんでた弟子のひとり」だったというマルツェリーナ・チャルトルィスカは, タッチの感覚について, 「指がピアノの深みに沈み,呑み込まれていかねばなりません」と言っています。 ショパンは, 繊細なタッチに敏感に反応するプレイエルを好んだのだと思われます。

他方, 華麗な超絶技巧で人気を博していたリストはエラールを好み, そのピアニズムはショパンと対照的だったようです。 またリストがコンサートで試用したベーゼンドルファーは, リストの烈しい演奏に耐えたことで世の信頼を得たと伝えられています。

さてショパンの没後, 19世紀後半のロマン派後期から20世紀初頭にかけて, ピアノの工業的な製造技術が著しく進歩します。 演奏家は大ホールでの演奏効果を重視するようになり, ベーゼンドルファー, スタインウェイ, ベヒシュタインなどのメーカーが 優れた性能をもつ近代的なピアノを生産するようになりました。 それと並行して, ロシアにおいて, ロマン派のピアノ奏法に近代的な技術を組み込んだ奏法が生まれます。 脱力した肩や腕の重みを生かして豊かな音を出すところに特長があります。

ところで, 現代のピアノは数千あるいはそれ以上の部品からなるそうですが, 工場から出荷されたばかりのピアノでは, すべての部品が楽器本来の性能を完全に発揮できる状態にあるとは限りません。 鍵盤からハンマーまでのアクションを整える「整調」, 弦を打つハンマーの弾力を整える「整音」, 弦が発する音の高さを正す「調律」, これらの作業は調律師の仕事ですが, 「整調」「整音」「調律」を経て, ピアノは「楽器」として完成します。

さて, 一つの楽器を長年使っていると, 弾き手の個性が楽器の性質となって現れるように思います。 楽器を弾くということは, 楽器とともに生活し, 楽器を育てることであり, 調律は楽器の健康を保つことですから, 「よい楽器」かどうかは, 楽器の出自 --- メーカーと機種 --- だけで決まるものではない側面があります。